平昌オリンピックのときに書いた、スポーツ選手のうつくしさについて

随分前に書いた文章。





オリンピック選手ってウルトラスーパーかっこいい。


すごく語彙がない題名になってしまった。偏差値3かよ。

わたしのセンスのない題名は置いておいて、オリンピック選手ってめちゃくちゃかっこよくないですか。いや、そんなのオリンピックが始まったときから知ってるわボケって言われても、アッはい、仰る通りですとペコペコ頭を下げるしかできないんだけど、改めて今回の平昌五輪でそう実感した。

まず3歳くらい、うんと幼いときからその競技を始めてきっと「あっ楽しい」って思う瞬間がたくさんあって、それからハマって競技に夢中になる。最初はそんな感じだったけれど、だんだん上手くなりたいという欲とそれと並行して相手に勝ちたいという欲が出てくる。学校との勉強を両立させながら頑張って、日本の中でトップに登りつめる。オリンピックを意識し始めて、(もっと早い段階でオリンピックを意識してる選手のほうがほとんどかもしれない)ただそこだけのために努力する。オリンピックの代表選手に選抜されて、でも喜んでばかりじゃいられないから毎日練習をする。オリンピックで金メダルをとるため、ただそれだけのために。ストイックにその競技だけをやり続けて、同級生と同じように遊んだりすることもできなくて。でも何かを手にするためには何かを捨てなくてはいけないと言い聞かせて、がむしゃらに何時間もその競技と向き合う。親の、友達の、地元の、マスコミの、日本の、期待という名のプレッシャーを背負って黙々と。最初は自分が好きで始めたことなのに、気づいたら日本のためになっている。もうやめたい、なんのために私はやっているんだと思ったこともあったかもしれない。

これはすべてわたしの想像で、こんな数行に収まらないくらいの悩みや過程があったんだろうなと思う。でもわたしたちが見れるのって選手の、いわば結果だけだ。親でもコーチでもないわたしたちがつらさや悩みを知ることはできない。選手たちは内心不安でいっぱいかもしれないけれど、わたしたちが見ている中で試合前や演技前に弱音や本音を吐いたりしない。「絶対に一位をとります」とわらうだけ。でもその虚勢がほんの少しだけ緩むのが、試合や演技が終わったあとだとおもう。

フィギュアスケーター羽生結弦選手が終わったあとに見せたあの、表情。息を切らせながら、それでもくるりと華麗一回転をし、両手を広げる。そっと目を伏せる。胸に手を当てて丁寧に深くお辞儀をして、微笑む。そして涙をこらえるように唇を噛んで、うつむく。

鳥肌が立った。涙が出た。あの一連の流れを、わたしはぼんやりと眺めることしかできなかった。怪我をしたときの暗闇に延々と閉じ込められたような絶望。羽生選手はのちに、「これで大丈夫だ」と思えたのが前日だったと述べていた。そのときまでどれほどつらかったんだろう、しんどかったんだろう。その葛藤がちょっとだけ覗けた気がした。彼の弱さがほんの少しだけ滲み出ていた気がした。

苦悩を押し込めて微笑む彼らは、世界で一番うつくしいとわたしは思う。