平昌オリンピックのときに書いた、スポーツ選手のうつくしさについて

随分前に書いた文章。





オリンピック選手ってウルトラスーパーかっこいい。


すごく語彙がない題名になってしまった。偏差値3かよ。

わたしのセンスのない題名は置いておいて、オリンピック選手ってめちゃくちゃかっこよくないですか。いや、そんなのオリンピックが始まったときから知ってるわボケって言われても、アッはい、仰る通りですとペコペコ頭を下げるしかできないんだけど、改めて今回の平昌五輪でそう実感した。

まず3歳くらい、うんと幼いときからその競技を始めてきっと「あっ楽しい」って思う瞬間がたくさんあって、それからハマって競技に夢中になる。最初はそんな感じだったけれど、だんだん上手くなりたいという欲とそれと並行して相手に勝ちたいという欲が出てくる。学校との勉強を両立させながら頑張って、日本の中でトップに登りつめる。オリンピックを意識し始めて、(もっと早い段階でオリンピックを意識してる選手のほうがほとんどかもしれない)ただそこだけのために努力する。オリンピックの代表選手に選抜されて、でも喜んでばかりじゃいられないから毎日練習をする。オリンピックで金メダルをとるため、ただそれだけのために。ストイックにその競技だけをやり続けて、同級生と同じように遊んだりすることもできなくて。でも何かを手にするためには何かを捨てなくてはいけないと言い聞かせて、がむしゃらに何時間もその競技と向き合う。親の、友達の、地元の、マスコミの、日本の、期待という名のプレッシャーを背負って黙々と。最初は自分が好きで始めたことなのに、気づいたら日本のためになっている。もうやめたい、なんのために私はやっているんだと思ったこともあったかもしれない。

これはすべてわたしの想像で、こんな数行に収まらないくらいの悩みや過程があったんだろうなと思う。でもわたしたちが見れるのって選手の、いわば結果だけだ。親でもコーチでもないわたしたちがつらさや悩みを知ることはできない。選手たちは内心不安でいっぱいかもしれないけれど、わたしたちが見ている中で試合前や演技前に弱音や本音を吐いたりしない。「絶対に一位をとります」とわらうだけ。でもその虚勢がほんの少しだけ緩むのが、試合や演技が終わったあとだとおもう。

フィギュアスケーター羽生結弦選手が終わったあとに見せたあの、表情。息を切らせながら、それでもくるりと華麗一回転をし、両手を広げる。そっと目を伏せる。胸に手を当てて丁寧に深くお辞儀をして、微笑む。そして涙をこらえるように唇を噛んで、うつむく。

鳥肌が立った。涙が出た。あの一連の流れを、わたしはぼんやりと眺めることしかできなかった。怪我をしたときの暗闇に延々と閉じ込められたような絶望。羽生選手はのちに、「これで大丈夫だ」と思えたのが前日だったと述べていた。そのときまでどれほどつらかったんだろう、しんどかったんだろう。その葛藤がちょっとだけ覗けた気がした。彼の弱さがほんの少しだけ滲み出ていた気がした。

苦悩を押し込めて微笑む彼らは、世界で一番うつくしいとわたしは思う。


ほんのちょっとだけ垣間見えた


きのう、十うん年間ずっとピアノを続けた人のピアノを聴かせてもらった。なんだか泣きそうになってしまった。


「最近全然弾いてないから」


そう言って困ったように笑うその人がピアノを弾き始めた瞬間、空気が変わった。

軽やかで楽しげなメロディー。そして曲調が突然荒々しくなり、どうしたらそんなに指が動くのかと考えてしまうくらいに忙しなく動く指。

びっくりするくらい華奢なひとが、全身を使ってピアノを弾いている。

その人が苦しくてもしんどくてもやめずに積み重ねてきたピアノ人生が、ほんのちょっとだけ垣間見えた気がして、鳥肌が止まらなかった。クラシックのことはおろか、音楽のこともさっぱりわからない。小中の音楽の授業でしかきちんと音楽と向き合ったことがない。楽譜もろくに読めない。


でもただただ胸が震えて、言語化できないくらい感動した。


グランドピアノを弾きこなす彼女が、一度プロになろうと考えて途中で挫折したこと。苦しいししんどいことも山ほどあったけど、それでもピアノをやめようと思ったことは一度もなかったこと。


そんな彼女の言葉が浮かんでは消えた。


その人のピアノは、今まで聴いたピアノ中で一番美しかった。



なにかひとつのことを極めて、努力をつづけたひとはどうしてこんなにもかっこいいんだろう。

私もそうなりたいなぁ、なれたらいいなというお話。


魅惑の飲み物、それはメロンソーダフロート

メロンソーダフロートが好きだ。まず見た目。普通は味から語るのではと思った方、少し考えてみてほしい。人間が最初に情報を手に入れるのは視覚からだ。メロンソーダは誰がなんと言おうと綺麗だと思っている。美しいというより綺麗。透き通ったエメラルドグリーンの上に浮かぶ、白いバニラアイスクリーム。それはさながら南国の海に浮かぶ島のよう。つやつやとしたさくらんぼが乗っていればさらに良い。緑と白と赤のコントラストの眩しさに、目を細めることしかできない。着色料だ、体に悪いなどという意見は全てスルーさせていただきたい。

目で楽しんだあとは、いよいよその味を堪能する。溶ける前に純白の塊を口に入れる。甘さに飽きてきたら、メロンソーダを。しゅわしゅわとした爽やかな口当たりが口をリセットしてくれる。ああ、なんという麻薬。この循環は止まらない。最後は溶けてきたアイスとメロンソーダを混ぜ合わせる。色が鈍くなりスムージー状になったそれをストローで吸う。おいしい。甘いバニラアイスクリームとスッキリとしたメロンソーダが舌の上でとろけ合う。それらメロンソーダフロートという名の宇宙をすべて飲み干し、至福のときを終わらせなければいけない。そうすることによって私たちは真のメロンソーダフロートマスターになれる。
ここまで徒然と語ってきたが、つまり何が言いたいかというと、私は今猛烈にメロンソーダフロートが飲みたい。  


そんな現実逃避の23時33分。さ、勉強しよ。

おわり

わたしの幸福論

きいてください、わたしの幸福論。


例えば選択肢にAとBがあるとするじゃないですか。今まではAとBどちらを選んだら幸せで、どちらを選んだら不幸かっていうのを考えていたんですよ。


でも違う。


どっちも幸福なんですよ。Aを選んだら、Bでは得られなかった幸せが得られる。Bを選んだらAでは得られなかった幸せが選べる。

どっちも幸せになれるし、幸せの形が違うだけって考えたら楽なんじゃないかって。


これからはこの考え方で生きていこうと思います。ありきたりな言葉ですが、物事は考えかた次第ですもんね!!明日もハッピー!!!!

忘れたくない

忘れたくないことがめちゃくちゃあるというおはなし。



最近、自分が好きなものを忘れたくないと強く思います。


わたしは絵を描くのが好きなんですが、見るのも同じくらい好きなんです。好きなイラストレーターさんとか数え切れないくらいいて、この人の絵好きだな!と思うと瞬時にツイッターをフォローします。そしてpixivをやっていた場合は颯爽とリンクからその人のホームまでいき、支部のほうもお気に入りに登録します。


もちろんその人の絵が好きで定期的に見たいからというのが一番なんですが、好きだと思ったから忘れたくないというのもあるんですよ。ひとって忘れる生きものじゃないですか。すべてのものを覚えていたら、情報量の多さや悲しいできごとのせいでしんどくなってしまうからたぶん忘れることは幸せでもあるかもしれない。


でもわたしは忘れたくないんだよ~!!!!



忘れるということが怖い。今感じてることとか、この瞬間好きだと思った事象や物をずっと覚えておきたい。ときどきそっと見返して心をいっぱいにしたい。どうも、ポエマー代表です。許して。深夜だからポエマーにもなるわ。もうすぐ卒業だからセンチメンタルになってるっていうのもあると思うんですが……。友達とくだらない話をしながら一緒に帰ったときの空気感とか、旅行に行ったときの美しい風景とか、その他もろもろ。写真撮ればいいじゃんって思った方、いやその通りなんですよ。だから写真大好きだし、ぱしゃぱしゃシャッターを押しまくるんですけど。

 

でもさ!!!!


写真を見返して思い出すことはできるけどさ、そのとき感じたことをそっくりそのまま蘇らせることはできないじゃん!!!!当たり前のことだけどさ!!それが嫌なの!!!!そっくりそのまま思い出したい!!楽しかったこと、嬉しかったこと、幸せだったこと、好きだと思ったことをさ!!!!!



でも無理なんだよなぁ。


pixivでイラストをブックマークするときも、「ああ~~~こんなに素敵なイラストなのに、わたしはいずれこのイラストとのことを忘れてしまう~~!!うわ~嫌だー!!!!!」とうだうだしています。


だからわたしは文章を書くことが好きなのかもしれない。そんな理由もありわたしは自分の思っていること、好きなことをツイッターで逐一報告しています。ツイ廃です。ツイッターたのしい!!そしてそれをときどき見返すのが好き。例:自分のユーザーIDのあとに「幸せ」「楽しい」「好き」「嬉しい」を入れて、そのとき自分がどんなことに前向きな感情を持っていたかを調べる。


この作業、たまにやるとほっこりして楽しいよ。みんなもやってみてね。



おわり

自己肯定感の高めかた(という名の自分語り)

ツイッターでよく、「自己肯定感めっちゃ低いから生きるのしんどい」みたいなつぶやきを見る。そんなひとに声を上げていいたい。

 
 
 
めっちゃわかる!!!!!!!!!
 
 
 
わかるよー!!同意しかない。
 
自己肯定感が低くていいことなんて何一つないってわかってる。でもどうしたらいいかわからない。なんでこんな人間が今日も生きてるんだろうって考えて、自分は社会に必要のない人間なんだって落ち込む。自分は自分なんだって言い聞かせてもやっぱり駄目で、他者と比較してどん底まで沈む。自分の短所しか見つからなくて、自信がなくなる。なにかに挑戦しようとしても「わたしなんか……」と思いとどまる。寝る前とお風呂に入っているときにいろいろ考えてしにたくなる。(これはわたしだけかもしれない)
 
 
しんどいよね。わかる。わたしも前までそうだった。
 
でもね、最近はちょっとずつ高まってきた。自己肯定感が育まれてきたんだ。前みたいに後ろ向きに考えることが減ったし、自分のことが大切にできるようになった。まだ完璧じゃないから、「うっ……どうしてわたしはこんなんなんだろう……」ってなることも、今人にどう見られてるんだろうってなることも多々ある。ごめん(?)
 
 
でも今は、手放しに自分大好き!ってまではいかないけど、あーこういうときの自分好きだって思えるようになった。成長じゃない?
成長なんだよ!
 
 
そんなわけで自己肯定感が低くなってしまったきっかけ、そしてそれをちょっとずつ高めていった方法をほそぼそと書いていこうと思うよ。自己満足にお付き合いください。
 
 
 

自己肯定感が低くなってしまったきっかけ

小学生のときまでは自己肯定感がめちゃくちゃ高くて何をするのも怖くなかったし、自分に自信があった。でも中学生になってたくさんのすごい人に出会って、あれ、わたしってこんなもんなんだって気づいてどん底まで落ちた。『あと自己肯定感が高い=ナルシスト』だと勘違いしていて、ちょっと自分すごいじゃん!ってことがあっても「えっわたしナルシストじゃんきも……」と考え、直さなきゃ!と思い立った。
 
でもそもそもナルシストは自分に性的興奮を覚えられる人、心療内科的にはありのままの自分を愛せないために「自分は素晴らしい人間だ」という妄想を抱き、その妄想に従って行動に移す人のことをいうらしい。(へー)
 
自己肯定感は自分を積極的に評価できることだから根本が違うんだね。
 
 
でも当時は自分はナルシストだ!と思ったんだよ。そんな最大に勘違いわたしは、これは矯正しなければ!ナルシストなのはよくない!謙虚に生きなきゃ!と行動に移し始める。やったことがこれ。
 
 
自分のやることなすことすべてを否定する。
 
 
……やっば。過去のわたしやっば。そりゃ自己肯力も低くなるわ。自分に自信がなくなるわ。あほじゃん。自分あほじゃん。
 
例えば、自分の中でこんな点数とれた!すごい!と思っても、慌てて「いや、もっと上の人いるし……。調子に乗っちゃだめ……。なんでこんな点数しかとれないのわたし」みたいなことを言い聞かせる、ということです。
 
やっべー。っべぇーわこれ。
 
これをなにかをするたびに繰り返してきて、自分嫌い自分に自信ない自分に生きている価値はないと考える自己肯定感低すぎモンスターが生まれたのであった。全部自分が引き起こしたことさ。はは。笑えねー。
 
 
でも、あるとき気づいた。
 
わたしの友達に勉強も運動も苦手で、要領もよくない子がいた。でもその子はなぜだかわからないけどキラキラしていた。毎日楽しい!!と豪語していた。
 
なんぞや?とわたしは思った。そんなんでどうして生きていられるの?(死ぬほど失礼。本当にごめんなさい。今はまったくそんなふうに思ってはおりません)
 
 
理由は簡単。その子は自分が好きだったのだ。自分のことがちゃんと好きだったのだ。
自己肯定感が高かった。例えなにか失敗しても、「まぁ私は私だから!」というのがその子の口癖だった。
 
 
……最高じゃん。理想形だわ。
 
生きていく上で一番大切なことって、コミュニケーション能力でも調和性でもなくて、『自己肯定力があるか』だと思うんだ。(あくまでわたしの考えです。悪しからず)
 
 
 

自己肯定感を高めるためにやってみたこと(失敗談)

そう気づいたのが一、二年くらい前。でも自己肯定感が高いと生きやすく、わたしのように自己肯定感が低いとめちゃくちゃしんどいというのがわかったのはいいものの、どうしたらいいかわからない。
いろいろ調べてみると『些細なことでも褒めるのが良い』と書いてあり、やってみよう!と挑戦した。
 
 
……駄目だった。
 
例えばお皿を洗ったことを褒めよう褒めようと思っても、結局「わたしすごい!これもできたの!すごい!……いや別にこんなの誰でも出来るわ。全然すごくない。もうやだ……こんなことで喜んでもしょうがないじゃん……死にたい」となってしまった。難しい。
 
 
そのあともどうするかな、わたしはもうこのまんま自己肯定感が低いまま生きて死んでいくのかなと悩む日々が続いた。
 
 
数年後、流れてきたツイートがきっかけで少しわたしは変わることになる。それがこちら。
 

 

 
 
えっ、ダリ最高じゃん。そしてそのリプライに(今はもう消されていたっぽい?)嘘でもんな風に言い続けることによって、自己肯定感が高まると書いてあった。
 
 
じゃあやってやんよ!!!!
 
わたしがやって失敗したことは、『行動に対して褒める』ということ。なにかしないと、わたしは今日もなにもしなかった……と鬱になって終わってしまうのと、先程書いたように「こんなん誰でもできるじゃん」もなってしまう。なんてめんどくさいんだ自分。
 
じゃあ今回はもうなんもしてなくても褒めたたえやるよ!!と思った。
 
やることは簡単だ。
 

 

自己肯定感を高めるためにやってみたこと2(成功談)

寝る前にベッドで、「わたしは今日も頑張った。わたしは生きてるだけで素晴らしい。最高!!わたし最高!!自分ダイスキ!!!」
 
と言い続けること。ひたすら無心で唱える。あと今日一日の反省会をして憂鬱にならないということに気をつけた。言霊ってね、あると思うんだわたし。前向きな言葉を言うと前向きな事柄が引き寄せられると思うし、後ろ向きな言葉を言うと、後ろ向きな事柄が引き寄せられる。ブスって言ってればブスになると思うし、かわいいって言ってればかわいいくなるとおもうよ。ということで実践。ひたすら実践。
 
最初はやはり、全然そんな風に思えなかった。わたしこんなんじゃないと悲しくなったりした。でもやめなかった。ひたすら毎日言い続けた。はたから見たら異常な行動だっただろうが、周りには誰もいないのだ。ぶつぶつと毎日唱え続けだ。
 
 
一日も欠かさずにやることで慣れ、それはわたしの寝る前の習慣となった。すると、前までできなかった、なにか小さなことでも褒めることが嫌じゃなくなった。自分を褒めることに抵抗がなくなった。
 
 
そうしたら、毎日どんな些細なことでも自分を褒められるようになった。そうしたらちょっと自信がついた。わたしは絵を描くこと、写真を撮ること、文章を書くことが趣味なのだが、自信を持って作品を見せられるようになった。「わたしの作品最高じゃない???好き!!」と思いながら作業するのは、はちゃめちゃに楽しい。
あと「あっこういう自分好きだな」とか「この服わたし似合ってるじゃんかわいい」と思えるようになった。成長。 
 
 
 

もう一つ大事なこと

三者に褒めてもらう。
わたしの友達にわたしのことを全肯定してくれる子がいたのも大きかったかもしれない。友達はわたしのことを大好きだと公言してくれて、毎日わたしに向かって「大好き!!のたりが好き!!」と叫んでくれる。
落ち込んだとき「わたし、こういうところが駄目なんだよ」と言うと、「いや私はのたりのすべてが大好きだから、その欠点も好き。のたりだからいいよ。もうなんでもいい」と答えてくれる。……すごいし有難い。なんて幸せ者なんだ、わたしは。
些細なことでも「さすが私ののたり!」と言ってくれるし、褒めて!とわたしがクソみたいな要求をしても、ラインで長々とわたしの長所を送ってくれる。
 
 
みんなも褒めてくれる相手を探すか、彼氏や彼女に「なんでもいいから褒めてほしい」お願いするのもいいかもしれない。
 
 
 

まとめ

結論:最初はそう思えないかもしれないけれど、無心で自分を褒め続けるor褒めてくれる相手を探す
 
 
わたしと一緒に自己肯定感を高めてハッピーになろ!!!!今日も生きよ!!!みんな最高!!!!!!生きてるだけで最高!!!!!!!!!
 

ひょろっとした背中を思い出した

友達とはなんぞということを考えるとき、必ず思い出す男の子がいる。


小学校四年生のときだ。クラスに、背が高くて、でも運動が苦手で気が弱い男の子がいた。その子を佐藤(仮)と呼ぼうと思う。佐藤は一年生のときから行動が変わっていて、クラスで少し浮いてしまっている存在だった。友達は一人もおらず気の強い男子にからかわれたり、酷い扱いをされていた。わたしは佐藤と特に仲が言い訳ではなかったけれど、隣の席になってからはときどきお喋りをするようになった。佐藤は意外にも口数が多く、いろいろなことを話してくれたけれど、早口で話題は支離滅裂だった。そして一方的な話がほとんどで、会話のキャッチボールというより、会話のドッジボール状態だった。クラスメイトが「そういうところが嫌われるんだよ」とぼやいていた。

そんな佐藤が四年生になって、目立つタイプの男子たちと一緒にいるところを見かけるようになった。校庭で佐藤が彼らと一緒にサッカーをするのを、お節介だとは思いつつも彼に友達ができたんだとほんの少し安心したのを覚えている。

でもそれは違っていた。

あくまでもわたしにとっては。

ある日、近所の公園で友達とバドミントンをしていると、佐藤と彼が仲良くしている男子たちがきた。彼らは私たちに声をかけたあと、サッカーを始めた。そこまでは何の変哲もなく、普通だった。不意にある男子が佐藤にこう言ったのだ。

「喉乾いたからジュース買ってこいよ」

ん?と私は首をかしげた。おかしい。みんなで行くか、ジャンケンで決めろよ。でも佐藤は一言も発さず、さも当たり前かのようにお金を持って自販機へ駆けていった。なんだか嫌な予感がした。

佐藤が早足で帰ってきて、ポカリを「はい」と男子たちに差し出す。彼らはお礼も言わず、無言でポカリを飲んだ。そして「おい」とまた佐藤にとある男子が声をかけた。「サッカーボール片づけろ」
佐藤は公園に無差別に広がっているサッカーボールを拾い集め、自転車のカゴに入れた。もちろん「拾ってくれてありがとう」なんていう優しい言葉もなかった。

「おせーんだよ」

一人の男子が佐藤の足を蹴る。はははと笑い声が広がった。佐藤は蹴られた場所を抑えて「いってぇ」とつぶやいた。集団でひときわ小さい、私たちより年下の、小学校一年生の男の子が佐藤に駆け寄った。ほっと安心したつかの間、その子はボールを佐藤の背中にぶつけた。「いたっ」と佐藤が呻き、うずくまる。それを見た男の子は、確か「馬鹿じゃん!」「弱すぎ」というようなことを笑いながら言っていた気がする。悪意の塊。その子は幼いから意識はしていないだろうけど、きっとそれらの行動には優越感や軽蔑が潜んでいた。
あいつらを見て、真似をして、学んでしまったんだろう。他者をいじめることで得られる快感と喜び。
「なにやってるの」と当時、無駄に正義感が強かったわたしは、怒った。バドミントンのラケットを投げ捨てて、後先考えずにその集団に詰め寄った。年下もいたけれど、大人気ないとは思わなかった。身体中が熱くてどうしようもなくて、こぶしを握りしめた。腹が立っていた。なんで佐藤がこんな扱いを受けなきゃいけないのだ。これは友達じゃない。だって見るからに対等な関係ではないじゃないか。お前いいのかよ佐藤。そんなんでいいのかよ。年下に馬鹿にされていいのかよ。なんか言い返してやれよ。男だろ。どうしようもない怒りが身体中を包んでいた。

でもそのクソみたいな男子たちも、やっぱり佐藤も何も言わなかった。彼らはぷいと顔を逸らし、何事もなかったかのように公園から出ていってしまった。ぞろぞろと列をなして流れてゆく自転車。佐藤はほんの少しそれを見送ったあと、慌てて自転車に跨り、必死に彼らの後を追おうとしていた。なんで追うんだよ。どうでもいいんじゃんかよあんな奴ら。
その後ろ姿を見てどうしようもない気持ちになった。なんでだよ。どうして。だからその弱々しい背中に向かって言った。

「それでいいの?あんなの友達って言えるの?」

馬鹿だった。ひたすらに愚かだった。今だったら絶対にそんなことは言わないだろう。彼にもプライドってもんがある。でも当時はそんなこと、頭にはなかった。お前それでいいのかよ。ただそれだけだった。こき使われてるよあんた。いいように利用されてるだけだよ。あんなんで友達って言えるのかよ。怒れよ。「やめろよ」って一言言ってしまえば楽じゃないか。あんなのと付き合うのやめろよ。そんなんだったらひとりのほうがマシだろ。友達なんて言わないんだよその関係は。たくさんの言葉が、喉の奥で詰まって消えた。

「いいんだ、別に」

俯きながら、ひょろりとした体格の彼はぽつりとそうこぼした。そしてもう一度、自分に言い聞かせるように「いいんだ」とつぶやいて、ふらふらと公園から去っていった。冷たい風が、落ち葉をころがしていた。

予想していた答えだったから驚きはなかった。でも悔しかったし、悲しかったし、歯がゆかった。私はクラスメイトだけれど、別に仲がいいわけでもない。グループが違う。性別が違う。わたしが友達になればいいとかそんなことで解決することでもなかったし、同情で友達になられても彼は嬉しくないだろう。それは違う。同情は相手を苦しめるだけだ。
もし今のわたしがあそこにいても、たぶんなにもできなかっただろう。あのときと同じだ。ぐるぐると渦巻く無力さとかやりきれなさとか怒りとかどうしようもなさとかもやもやを抱えながら、ただ背中をぼんやりと見つめることしかできない。

あのとき、俯いていた佐藤はどんな顔をしていたんだろう。どんなことを考えていたんだろう。



後日、わたしはそのことを、ある友達に話した。何度考えても納得がいかなかったからだ。「わたしだったらあんな友達はいらない。それだったらひとりでいい」と乱暴に伝えると、友達はやけに大人びた顔をして、「のたりはそうなんでしょ。でも佐藤は違うんだよ」と返答したのをやけに鮮明に覚えている。その通りだ。淡々と言い放った彼女の言葉は、正しい。


佐藤はどれだけ酷い言葉を浴びさせられようと、どれだけ酷い行いをされようと誰かと一緒にいたかったのだろう。誰かのそばにいたかったのだろう。 
だって、ひとりは怖い。みんなの笑い声を聞きながら、ひとりで過ごす教室はさびしい。あのときわたしはああ言ったけれど、本当にひとりになったとき、そんな風に強がれるかはわからない。さびしくてさびしくてどうしようもなくなって、誰でもいいから感情を共有して共感してほしくなってしまったら。例えひどい仕打ちを受けてしまったとしても、もしかしたら誰かがそばにいる喜びが勝ってしまうかもしれない。
自分に「本当にこれでいいのか」と何度も問いかけて、でも“それ”と真正面から向き合ったらなにかが壊れてしまいそうだから。「これでいいんだ」と言い聞かせ続けて、不健全でぐにゃりと曲がったその関係のあたたかさに浸る。

彼はそれでよかったのだ。わたしが口を出すべきではなかった。
でも。それでも。
佐藤が、灰色で歪な“それ”ときちんと向き合って目をそらさないで、「やめろよ」って大きな声で叫ぶ。そんな姿を見たひとりの男子が、声をかけて佐藤と仲良くなる。そんな想像は彼からしたら余計なお世話だろう。でもそうなったらよかったのにと、小学生のわたしはぼんやりと考えていた。



今、彼はなにをしているんだろう。
授業で詩の勉強をしたときに、クラスの中で一番うつくしい詩を書いていた佐藤。
誰かがそんな素敵なところに気づいて、佐藤が俯きながら「これでいいんだ」と唱えなくてすむような、屈託のない笑顔を浮かべられるような、本当の“友達”が彼のそばにいることをお節介なわたしは願っている。


おわり