ひょろっとした背中を思い出した

友達とはなんぞということを考えるとき、必ず思い出す男の子がいる。


小学校四年生のときだ。クラスに、背が高くて、でも運動が苦手で気が弱い男の子がいた。その子を佐藤(仮)と呼ぼうと思う。佐藤は一年生のときから行動が変わっていて、クラスで少し浮いてしまっている存在だった。友達は一人もおらず気の強い男子にからかわれたり、酷い扱いをされていた。わたしは佐藤と特に仲が言い訳ではなかったけれど、隣の席になってからはときどきお喋りをするようになった。佐藤は意外にも口数が多く、いろいろなことを話してくれたけれど、早口で話題は支離滅裂だった。そして一方的な話がほとんどで、会話のキャッチボールというより、会話のドッジボール状態だった。クラスメイトが「そういうところが嫌われるんだよ」とぼやいていた。

そんな佐藤が四年生になって、目立つタイプの男子たちと一緒にいるところを見かけるようになった。校庭で佐藤が彼らと一緒にサッカーをするのを、お節介だとは思いつつも彼に友達ができたんだとほんの少し安心したのを覚えている。

でもそれは違っていた。

あくまでもわたしにとっては。

ある日、近所の公園で友達とバドミントンをしていると、佐藤と彼が仲良くしている男子たちがきた。彼らは私たちに声をかけたあと、サッカーを始めた。そこまでは何の変哲もなく、普通だった。不意にある男子が佐藤にこう言ったのだ。

「喉乾いたからジュース買ってこいよ」

ん?と私は首をかしげた。おかしい。みんなで行くか、ジャンケンで決めろよ。でも佐藤は一言も発さず、さも当たり前かのようにお金を持って自販機へ駆けていった。なんだか嫌な予感がした。

佐藤が早足で帰ってきて、ポカリを「はい」と男子たちに差し出す。彼らはお礼も言わず、無言でポカリを飲んだ。そして「おい」とまた佐藤にとある男子が声をかけた。「サッカーボール片づけろ」
佐藤は公園に無差別に広がっているサッカーボールを拾い集め、自転車のカゴに入れた。もちろん「拾ってくれてありがとう」なんていう優しい言葉もなかった。

「おせーんだよ」

一人の男子が佐藤の足を蹴る。はははと笑い声が広がった。佐藤は蹴られた場所を抑えて「いってぇ」とつぶやいた。集団でひときわ小さい、私たちより年下の、小学校一年生の男の子が佐藤に駆け寄った。ほっと安心したつかの間、その子はボールを佐藤の背中にぶつけた。「いたっ」と佐藤が呻き、うずくまる。それを見た男の子は、確か「馬鹿じゃん!」「弱すぎ」というようなことを笑いながら言っていた気がする。悪意の塊。その子は幼いから意識はしていないだろうけど、きっとそれらの行動には優越感や軽蔑が潜んでいた。
あいつらを見て、真似をして、学んでしまったんだろう。他者をいじめることで得られる快感と喜び。
「なにやってるの」と当時、無駄に正義感が強かったわたしは、怒った。バドミントンのラケットを投げ捨てて、後先考えずにその集団に詰め寄った。年下もいたけれど、大人気ないとは思わなかった。身体中が熱くてどうしようもなくて、こぶしを握りしめた。腹が立っていた。なんで佐藤がこんな扱いを受けなきゃいけないのだ。これは友達じゃない。だって見るからに対等な関係ではないじゃないか。お前いいのかよ佐藤。そんなんでいいのかよ。年下に馬鹿にされていいのかよ。なんか言い返してやれよ。男だろ。どうしようもない怒りが身体中を包んでいた。

でもそのクソみたいな男子たちも、やっぱり佐藤も何も言わなかった。彼らはぷいと顔を逸らし、何事もなかったかのように公園から出ていってしまった。ぞろぞろと列をなして流れてゆく自転車。佐藤はほんの少しそれを見送ったあと、慌てて自転車に跨り、必死に彼らの後を追おうとしていた。なんで追うんだよ。どうでもいいんじゃんかよあんな奴ら。
その後ろ姿を見てどうしようもない気持ちになった。なんでだよ。どうして。だからその弱々しい背中に向かって言った。

「それでいいの?あんなの友達って言えるの?」

馬鹿だった。ひたすらに愚かだった。今だったら絶対にそんなことは言わないだろう。彼にもプライドってもんがある。でも当時はそんなこと、頭にはなかった。お前それでいいのかよ。ただそれだけだった。こき使われてるよあんた。いいように利用されてるだけだよ。あんなんで友達って言えるのかよ。怒れよ。「やめろよ」って一言言ってしまえば楽じゃないか。あんなのと付き合うのやめろよ。そんなんだったらひとりのほうがマシだろ。友達なんて言わないんだよその関係は。たくさんの言葉が、喉の奥で詰まって消えた。

「いいんだ、別に」

俯きながら、ひょろりとした体格の彼はぽつりとそうこぼした。そしてもう一度、自分に言い聞かせるように「いいんだ」とつぶやいて、ふらふらと公園から去っていった。冷たい風が、落ち葉をころがしていた。

予想していた答えだったから驚きはなかった。でも悔しかったし、悲しかったし、歯がゆかった。私はクラスメイトだけれど、別に仲がいいわけでもない。グループが違う。性別が違う。わたしが友達になればいいとかそんなことで解決することでもなかったし、同情で友達になられても彼は嬉しくないだろう。それは違う。同情は相手を苦しめるだけだ。
もし今のわたしがあそこにいても、たぶんなにもできなかっただろう。あのときと同じだ。ぐるぐると渦巻く無力さとかやりきれなさとか怒りとかどうしようもなさとかもやもやを抱えながら、ただ背中をぼんやりと見つめることしかできない。

あのとき、俯いていた佐藤はどんな顔をしていたんだろう。どんなことを考えていたんだろう。



後日、わたしはそのことを、ある友達に話した。何度考えても納得がいかなかったからだ。「わたしだったらあんな友達はいらない。それだったらひとりでいい」と乱暴に伝えると、友達はやけに大人びた顔をして、「のたりはそうなんでしょ。でも佐藤は違うんだよ」と返答したのをやけに鮮明に覚えている。その通りだ。淡々と言い放った彼女の言葉は、正しい。


佐藤はどれだけ酷い言葉を浴びさせられようと、どれだけ酷い行いをされようと誰かと一緒にいたかったのだろう。誰かのそばにいたかったのだろう。 
だって、ひとりは怖い。みんなの笑い声を聞きながら、ひとりで過ごす教室はさびしい。あのときわたしはああ言ったけれど、本当にひとりになったとき、そんな風に強がれるかはわからない。さびしくてさびしくてどうしようもなくなって、誰でもいいから感情を共有して共感してほしくなってしまったら。例えひどい仕打ちを受けてしまったとしても、もしかしたら誰かがそばにいる喜びが勝ってしまうかもしれない。
自分に「本当にこれでいいのか」と何度も問いかけて、でも“それ”と真正面から向き合ったらなにかが壊れてしまいそうだから。「これでいいんだ」と言い聞かせ続けて、不健全でぐにゃりと曲がったその関係のあたたかさに浸る。

彼はそれでよかったのだ。わたしが口を出すべきではなかった。
でも。それでも。
佐藤が、灰色で歪な“それ”ときちんと向き合って目をそらさないで、「やめろよ」って大きな声で叫ぶ。そんな姿を見たひとりの男子が、声をかけて佐藤と仲良くなる。そんな想像は彼からしたら余計なお世話だろう。でもそうなったらよかったのにと、小学生のわたしはぼんやりと考えていた。



今、彼はなにをしているんだろう。
授業で詩の勉強をしたときに、クラスの中で一番うつくしい詩を書いていた佐藤。
誰かがそんな素敵なところに気づいて、佐藤が俯きながら「これでいいんだ」と唱えなくてすむような、屈託のない笑顔を浮かべられるような、本当の“友達”が彼のそばにいることをお節介なわたしは願っている。


おわり